ハワイ島を襲ったエイプリルフールの悲劇

ハワイ島を襲ったエイプリルフールの悲劇

Aloha mai kākou!

フェイクニュースやジョークが世界中で飛び交う、4月1日の「エイプリルフール」。

賑やかでちょっと笑えるホリデーイベントですが、最近ではそのニュースがウソか本当か紛らわしいことから、イベントを自粛する動きもあるようです。

確かに、ある程度ウソだとわかるネタでないとビックリしてしまいますよね。
さて、今回はそんなエイプリルフールにまつわるハワイで起きた悲劇についてご紹介します。

ハワイ島の日本人街

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19世紀後半、ハワイ島ではサトウキビやパイナップルのプランテーション(大量栽培)が盛んでした。

島の東側には、オアフ島ホノルルに次ぐ都市として発展したヒロの街があり、1850年に1,500人だった人口は1910年には6,745人、1940年にはその約4倍の23,351人になりました。
将来的には3万から10万人の規模になるという予想のもと、インフラ整備の計画がなされていきました。

ヒロのダウンタウンの沿岸には、日系人を中心としたシンマチ(新町Shimachi)地区やヤシジマ(椰子島Yoshijima)地区など住宅地が開発されました。
1899年には海岸線に沿ってサトウキビやパイナップルの輸送と観光を兼ねた鉄道(The Hawaii Consolidated Railway)が開通しています。

エイプリルフールの悲劇

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島国であるハワイで、自然災害に遭うとしたら最も確率が高いのが「津波」だと言われています。
1868年4月2日のハワイ地震の津波、1877年5月10日のチリ地震による津波など、ハワイは昔から津波による被害を受けてきました。

そういった被害があったことから、1929年ハワイ島のヒロ湾にも防波堤が作られ津波への対策が取られます。
しかし、1946年4月1日の午前7時前、アリューシャン列島付近でおきたマグニチュード7.8の地震による津波が、ヒロのあるハワイ島東海岸を襲いました。

その当時。通学途中の子どもたちが潮が引いていく様子を知らせたにもかかわらず、エイプリルフールだからと大人は信じなかったと言われています。

結果として、高さが27フィート(約8.2m)にも及ぶ巨大な津波は甚大な被害を及ぼし、死者・行方不明者は165人、被害総額は2,600万ドルにまでのぼるとされています。

津波対策で作られたヒロ湾の防波堤は壊れ、8トンの塊が街中まで流されたそうです。
海岸沿いのベイエリアとシンマチは壊滅的な被害を受け、海岸線を走る鉄道や鉄橋も流されました。

ラウパホエホエ岬にあった学校にいた日系人の子供たちを含む24人は学校ごと命を奪われています。

この時から「ツナミ(Tsunami)」という単語が国際的に使われるようになりました。

またもや悲劇

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この津波の教訓から津波警報システムや避難指示の整備がされ、その後の1952年カムチャツカ地震と1957年アリューシャン地震では人的被害が出ませんでした。

ヒロの街も再建が進み市民の津波への警戒が薄れてきた1960年5月22日午後15時11分、チリでマグニチュード9.5の巨大地震が発生しました。

ヒロでは午後8時半に津波のサイレンが鳴ったにも関わらず、多くの人々は油断してしまったそうです。
人々が油断した理由は2つあります。

1つ目は、ちょうど警報システムを変更したばかりだったことやラジオ放送で間違った津波襲来時間を放送したことなど情報伝達が不十分でした。

また、タヒチに到達した津波が3フィートと小さかったことや深夜にヒロに到達した第1波が小さかったことなどの不運が重なり、津波を軽視する人が多かったのです。

そして深夜1:04、35フィート(約10.5m)の第3波の津波襲来により61名が犠牲になってしまった上、1946年に大津波で甚大な被害を受けた場所が再び壊滅的な打撃を受けてしまいました。

この2つの津波の教訓から、ヒロ湾沿岸部には宅地や商業施設を建設せず、公共の公園として開放しています。
この公園は、ちょうどヒロのカメハメハ像の前のあたりの緑地帯がシンマチのあった場所です。

ヒロからホノカアへ向かう途中のラウパホエホエ・ビーチパークには、1946年の津波で犠牲になった人達のモニュメントもあります。

太平洋ツナミ博物館

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ヒロの津波を忘れてはいけません。
津波被害の歴史や恐ろしさを後世に伝える博物館がヒロのダウンタウンにあります。

1998年に建てられた、その名も「太平洋津波博物館(Pacific Tsunami Museum)」。

ハワイのみならず、東日本大震災などの津波被害の展示や津波について学べるコーナー、1946年・1960年の大津波に関するビデオが見られたり、警報発令や避難についてなど学たりします。

また、東日本大震災で命を落としたいわき市の鈴木姫花さん(当時10歳)デザインの「灯台ハンカチ」が2018年から常設展示されています。

2つの津波を経験したヒロでは、毎月1日正午に定期的なテストを兼ねてサイレンを鳴らし、市民にも津波に対する啓発を促す努力が続けられています。

毎年ヒロで行われるフラの祭典「メリーモナーク・フェスティバル」が始まったきっかけとなったのも、実はこの2回の大きな津波によるでした。

そんなお話はまたいつか。
A hui hou!

▶ ハワイの自然災害に滞在中に遭ったときの対処法|LaniLani

マルヒア・コジマ
著者:マルヒア・コジマ
ロケラニ・ハワイアン・カルチャー・ラボ主宰 ふと手にした"マナ・カード ハワイの英知の力"をきっかけに古代ハワイへの探求がはじまり、今や古代だけでなく、ハワイの文化・歴史・神話・雑学を、大学の特別講義や各地のカルチャースクールなど、飛び回り語っています。ありがたいことに、はや14年。 約5,000件のサンプルから統計を取った、独自のマナ・カードの解釈を理論的に教えており、日本だけでなく現地ハワイにも生徒を持つマナ・カード講師の顔と、 そのマナ・カードを使ったセラピーでは、世界各地にクライアントが存在する、行列の出来る熱血マナ・カードセラピストでもあります。 古代ハワイの叡智(フナ)を残していく事に情熱を傾けています。 ブログ  マナ・カードとハワイアンカルチャー インスタグラム

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