
先日火災があったカホオラヴェ島は「標的の島」!?
2月22日に飛び込んできたカホオラヴェ島の火災のニュース。
消火活動ができないため、鎮火に手間取ったようです。
ハワイ諸島の中でも、カホオラヴェ島の話題を耳にすることはなかなかないと思いますのでこの機会に島についてご紹介します。
カホオラヴェ島って?
ハワイ諸島は北西ハワイ諸島の環礁や暗礁、小さな島々を含めると100以上の島があると言われていますが、主要な島は8島。
その8島の中で一番小さな島が、マウイ島の南西にあるカホオラヴェ島です。
乾燥した赤土の島で、人が生活する島というよりは島ごと漁業や航海の聖地とされていたようです。
(※現在、人は住んでいません。)
そのため古代では、海に関連するハワイの四大神の一神、カナロアの島と呼ばれました。
ラナイ島とカホオラヴェ島の間にはハワイアンのルーツであると言われるタヒチに通じる、「タヒチへの道(ケアライカヒキ)」と呼ばれる海峡があり、島には遠洋漁業や航海に関連する儀式場(ヘイアウ)がありました。
そんな小さな島の別名は「標的の島 ターゲット・アイランド」。
そう呼ばれるのには理由があります。
カホオラヴェ島が標的の島と呼ばれる理由
18世紀になると、西洋人が羊やヤギ、牛などをこの島へ持ち込みました。
そのせいでカホオラヴェ島の生態系が変化してしまい、島のハワイ固有の植物は姿を消していきました。
羊・ヤギ・牛はどんどん増え植物を食い荒らし、ますます島は荒れていきます。
カメハメハ三世の時代には流刑地になっていた時もあったそうです。
1941年、日本が真珠湾を攻撃するとカホオラヴェ島はアメリカ軍の爆撃演習場となり、島は毎日砲撃対象にされました。
「標的の島」という呼び名は、そんな所からきているのです。
ハワイアンの戦い

参照:パウスカートショップ
ハワイアン・ルネッサンスと呼ばれる1970年代は、ハワイアンが自分達のアイデンティティを考えハワイ文化の復興、継承が始まった時期でした。
ハワイアンの聖地であり先祖代々からの土地であったはずのカホオラヴェ島が、毎日爆撃にさらされている事に対してカホオラヴェ島の返還運動を行うハワイアン達がでてくるのも自然な事です。
その返還運動をハワイアン・ミュージックを通じて行った、ジョージ・ヘルムというミュージシャンがいます。
彼はカホオラヴェ島のことを知るとその運動に加わり、音楽を通じてハワイアンや反対派に啓蒙活動を行なったり、政府と交渉をしたりとカホオラヴェ島のリサーチに積極的に関わっていきました。
その甲斐あって、政府も彼らに一目置くようにまでなったのです。
だからといってその時代、カホオラヴェはあくまでアメリカ軍の土地なので、許可なく入ることはできません。
演習阻止のため許可なくカホオラヴェ島に上陸したハワイアン活動家2人が島に取り残された時、ジョージを含む3人が救出に向かいましたがアメリカ軍の警備隊に見つかってしまいます。
攻撃されそうになったため、3人は海に飛び込み1人は泳いでマウイ島にたどり着きましたが2人は行方不明に。
その行方不明になったうちの1人が、ジョージ・ヘルムでした。
ちなみに彼はハワイの歌姫、ライアティア・ヘルムの叔父です。
カホオラヴェ島の復活
そんな事件後も彼らの意思は引き継がれ、1991年には米軍は爆撃を取りやめ、1994年島はハワイ州に返還されました。
返還されたのですが島はひび割れ、外来種がはびこり未だに不発弾が大地や海底に残されています。
現在はボランティアが、ハワイ固有ではない外来種の木の伐採と固有種の植樹、不発弾の処理などを行なっています。
ですから、一般の方は足を踏み入れることができない島となっています。
ボランティアの努力の積み重ねでカホオラヴェ島は手入れされてきたのですが、2月22日より発生していた火災により約9,000エーカー(島の3分の1とも言われる)が焼失しました。
不発弾が島にはまだまだ存在することから現地での消火作業ができない状況となっていましたが、雨によりなんとかほど収束したようです。