マカハビーチのレジェンド・サーファー「レル・カポリオカエフカイ・サン」
オアフ島の西側は美しいビーチと美しい風景があります。
リーワード地区(Leeward)と呼ばれる西オアフも、最近はショッピングモールやリゾート、アクティビティで人気が高まっています。
しかし、以前は、観光客はあまり立ち寄ることのないローカル色の強いエリアでした。
そのリーワードにあるマカハビーチは、世界的にもサーフィンで有名なビーチです。
今回は、マカハビーチで伝説的な存在として多くの人から愛されたサーファーについて紹介していきます
クイーン・オブ・マカハ
マカハで生まれ育った「レル・カポリオカエフカイ・サン(Rell Kapolioka ‘ehukai Sunn)」は、通称クイーン・オブ・マカハと呼ばれるレジェンド・サーファーの一人です。
彼女のハワイアン・ネームの「カポリオカエフカイ」には、ハワイ語で「海のしぶきに抱かれた人」「海の心」といった意味があります。
ハワイアン・ネームの由来は、祖母が彼女が生まれた時に海の夢を見たことから、名付けられました。
そしてその通り、海に生き、海のように深い心で人生を生き抜いた人です。
彼女の生まれ育った地域は、ビーチで暮らすホームレスや低所得者が多く住み、犯罪や非行の多い環境。
彼女のファミリーも例外ではなく、貧しいサン家の5人の子供達の遊び場は目の前の海だったそうです。
そんなわけで、彼女曰く4歳から波に乗っていたそうで、サーフィン、ダイビング、カヌー、スピアフィッシングと、海に関係することはなんでもこなしました。
海だけでなく、陸でもフラ・ダンサー、ラジオDJ、柔道も黒帯のスーパー・ウーマン。
サーフィンとレル
ポリネシア発祥のサーフィン(ハワイ語でヘエナル)は、19世紀にハワイへやって来た宣教師により禁止されました。
禁止された理由は、原住民の野蛮な遊び、と考えられたからです。
そのサーフィンをスポーツにまで押し上げたのは、ワイキキビーチに銅像のある現代サーフィンの父「デューク・カハナモク」。
スポーツとしての地位は上がったサーフィンでしたが、レルの時代はまだまだ男性向けのスポーツでした。
しかし彼女は、女子部門のないサーフィン大会で男性に混じって競い3位入賞。
その後、世界中の大会で数々の賞を受賞していきます。
また、ホノルル初の女性ライフガードとしても活躍。
1976年には彼女のホーム、オアフ島西側の犯罪や非行の多い環境にいる子供達のために「メネフネ・サーフコンテスト」を開始。
他にも、ボードが買えない子供達にサーフボードを提供したり、マカハの子供達に希望を与えました。
マカハのレジェンド
サーフィンなどでは男子顔負けの活躍をしたレルですが、非常に面倒見がよく細やかで聡明な愛情溢れる女性でした。
サーフィン大会でどんなにたくさんの子供達が集まってきても一人ひとりと対話をし、寄り添ってくれました。
また、世界中から集まる旅人たちを家に招き入れ、アロハ・スピリットでもてなしました。
そんな彼女は32歳の時にガンが発覚。
余命数ヶ月との宣告や辛い治療やドクターストップもなんのその。
サーフィンやそれまでの子供達へのサポートに加えて、女性のガンのサポートやその他のボランティア活動をいくつも精力的にこなしたのでした。
彼女によって光を見出した子供達や人々は数知れず。
余命数ヶ月と宣告されてから15年目の1998年1月2日、レルは惜しまれながらこの世を去りました。
同年1月17日には、彼女のホームであるマカハの海に散骨されました。
サーフィン・イン・ハワイ
そんな彼女のサーフボードが、オアフ島ビショップ博物館で開催されているイベント「マイ・キノヒ・マイMai Kinohi mai ・サーフィン・イン・ハワイ」で展示されています。
このイベントでは、サーフィンの歴史を語る上で貴重な写真の数々を見ることができる他、波乗りの科学的検証やハイテク機器を使ってサーフィン擬似体験ができます。
レル・サン以外にも、サーフィンの父デューク・カハナモク、東京五輪出場選手のカリッサ・ムーア、ハレイワ出身のジョン・ジョン・フローレンス、カイウラニ王女らのサーフボードの展示も。
「マイ・キノヒ・マイMai Kinohi mai ・サーフィン・イン・ハワイ」の一部は、ハワイ州観光局が主催する「HAWAI’I EXPO」(福岡、名古屋、大阪、札幌、東京)で展示され、サーフィンの啓蒙活動が行われています。
詳しいイベント情報については、HAWAI’I EXPO公式サイトからご確認ください。