ハワイアンカルチャー

ハワイアンカルチャー

アロハシャツ

ハワイでは正装とされ、ビジネスの場だけでなく冠婚葬祭でも通用するアロハシャツ。ゆったりとしたその着心地と南国をイメージしたデザインは、ハワイの代名詞のひとつと言えるだろう。その原型はハワイを訪れた欧米の船員が着ていた作業服のフロックシャツといわれている。やがてフロックが訛りハワイ語でパラカシャツと呼ばれるようになり、ハワイで働く労働者達の間に広まった。現在ではその代表的な柄である格子柄のシャツをパラカシャツと呼ぶようになった。移民がハワイにやって来るようになると、彼らは自国の布地を使ってシャツを仕立てるようになり、仕立て店がホノルルに次々に登場。日本移民も着物を使いパラカシャツを創るようになるが、これがアロハシャツの始まりといわれている。

1935年にホノルルの武蔵屋が初めてアロハシャツという言葉を使用したが、その翌年にホノルルの中国系移民2世のエラリー・チャンが、アロハシャツを正式に商標登録する。観光地としてのハワイ人気が高くなると共に、お土産としてアロハシャツを購入する観光客が増えるようになり、アロハシャツは世界中に知られるようになった。

ムウムウ

昔からハワイで着られているというイメージのムウムウだが、ハワイで誕生したのは、布教に訪れた宣教師の妻が着ていたドレスを、王族の女性が見たことがきっかけだ。しかし当時のハワイアンは体格が良く西洋のドレスが着られないため、体型に合わせゆったりとした、袖の短いドレスが創られた。このドレスをホロムと呼び、その下着をムウムウと呼び、このドレスはステータスを表すファッションとして位の高い王族達の間に浸透していった。

当初はムウムウとホロムを2枚重ねで着用していたが、温暖なハワイではムウムウを普段着に、ホロムをフォーマルにと使い分けるように着方も変わっていった。しかし、多くのハワイアン女性は、樹皮で創ったカパを重ねた「パウ」というスカートをはき、上半身は裸だった。これを見た宣教師が王族の女性達に創ったようなドレスを着ることをすすめた。やがて宣教師の妻達から裁縫を教わったハワイアンの女性達は自分でドレスを創ることが出来るようになり、一般女性にも浸透していくことになる。20世紀になると、室内着に使われていたムウムウが、上質な生地を使用して仕立てられるようになり、現在のハワイ女性の正装「ムウムウ」となったのだ。

ハワイアンキルト

「ハワイアンキルト」とは2色の布地を使い、雪の結晶の様なシンメトリーのデザインに切り出した布をパッチワークとして縫い付け、そこに綿と裏地を付けてキルティングし、最後に波模様のようなエコーキルトを施した物だ。このエコーキルトはハワイの波の波紋を表しているといわれている。
ハワイアンキルトは布教に訪れた宣教師の妻がハワイの女性に裁縫を教えた事が始まりとされている。当時は小さな端布を幾何学模様につなぎ合わせるピースワークに薄手の綿と裏地を付けた物だったが、元々生地が存在していなかったハワイには端布も無くピースワークが出来なかった。そこで大きな布をわざわざ端布にして使用したが、それを不自然に感じたハワイの女性達が、シンメトリーの布をパッチワークすると言う手法を考え出したといわれている。

デザインにも幾つか決まりがあり、4足の動物や人間をデザインとして使うことは、その魂がキルトに宿ってしまうためタブーとされている。またすべて手作業で作られたキルトには作り手の思いが入ると考えられている、このため作り手が亡くなった時にはキルトも棺の中に入れられたことが、今日、アンティーク物が少ない理由といわれている。

ウクレレ

ハワイを代表する弦楽器ウクレレ。この楽器の始まりは1878年にポルトガルからやってきた移民だと伝えられている。彼らの中にポルトガルの伝統楽器の奏者や制作者がいたのだが、彼らがハワイに上陸させたこの伝統楽器こそ、小さな4本弦の楽器「ブラギーニャ」だ。初めはピラ・リイリイ(小さなバイオリン)と呼ばれていたが、やがて「ウクレレ」と呼ばれるようになっていった。「ウクレレ」はハワイ語で「跳ねるノミ」の意味で、その由来には諸説あるようだ。代表的な説としては、次のような物がある。カラカウア王には小さな身体で機敏に動く側近がおり、ukuleleと言うニックネームで呼ばれていた。彼は小型ギターや、その弾き方を王に教えたことから、その側近のニックネームをポルトガルから渡ってきた4本弦の楽器に付けたと言う説である。

ウクレレのサイズにはスタンタードといわれる「ソプラノ」から「コンサート」「テナー」「バリトン」と4種類があり、多くはコアウッドで作られ、その木目の美しさは非常に魅力的だ。今日、優しい音色と豊かな音色を奏でるウクレレは世界中で愛され、多くの国々で「ウクレレ・フェスティバル」が開催されるほど人気の弦楽器である。

ハワイアンミュージック

初期のハワイで音楽はフラと共にあったが、キャプテンクックがハワイに来航した事で西洋音楽の影響を受け大きく変化を遂げる。一般の人々だけでなく王族も西洋音楽を積極的に取り入れ広く浸透するようになると、やがて「ウクレレ」や、独自の調律を用いる「スラッキー・ギター」などハワイ独自の楽器や演奏法も生まれた。ハワイ王朝の末期にはカラカウア王や、リリウオカラニ女王など、王族の中からも音楽の才能を開花させる者が出てくるようになった。アメリカ領になり観光化が進むと、ハワイ語で「半分白人の歌」と言う意味のハパ・ハオレ・ソングが世界中に知られるようになる一方、ハワイアンルネッサンス活動が盛んになりカヒコ・フラ(古典フラ)が注目を浴びるようになる。さらにハワイの伝統音楽と現代のサウンドから新たなハワイアンミュージックを創り出すミュージシャンも活躍するようになっていった。こうしてハワイアンミュージックは世界中で親しまれるようになり、2017年には世界最大のミュージック・アワード、グラミー賞の最優秀リージョナル・ルーツ・ミュージック・アルバム賞部門でハワイ出身のミュージシャン「カラニ・ペア」が受賞した。

コナコーヒー

コナコーヒーはハワイ島コナ地区を産地とするコーヒーの事で、豊かな香りとフルーティな酸味が魅力だ。その歴史はカメハメハ2世が外遊中に亡くなったことから始まる。彼の遺体を乗せた船はハワイへ戻る途中にリオ・デジャネイロへ寄港、同行していたオアフ島のボギ酋長がコーヒーの木をハワイへ持ち帰り、オアフ島のマノアにある自分の農園で栽培しようとしたが失敗。その3年後、宣教師のラグルがボギ酋長の農園に残っていたコーヒーの木をハワイ島のカイルア・コナで観賞用に栽培、これに成功したのがコナコーヒーの始まりだ。
コナのコーヒー産業は繁栄と衰退を繰り返したが、日系人がコーヒー栽培にかかわるようになるとハワイの代表的な産業として発展した。コナコーヒーの豆は品質の高いものから順に「エクストラファンシー」「ファンシー」「No.1」「セレクト」「プライム」「No.3」に分けられるが、最も高価な豆はコーヒーの実の中に種子が1つしかないピーベリーだ。
また、ハワイ州の法律では製品内容量に対してコナコーヒーの割合が10%以上であれば「コナ・ブレンド」と表示できる為、安いコナコーヒーでは異なる品種が入る事があるので覚えてくと良いだろう。